が、その生没年は詳(つまび)らかではない。それで額田王の歌作のうち、
年次の分かるものをもととして、その生年を西暦六三九年頃と考えた。その
上で、その三十歳代初め、つまり西暦六六八年より数年を、取りあえず物語
風にまとめた。
近江の大津へ遷都した翌年(西暦六六八年)春正月に天智天皇は即位した
が、その祝宴で、額田王は春山と秋山とを比較した歌《冬こもり春さりくれ
ば・・・・》を作ったが、それは夫君の天智天皇を揶揄(やゆ)する内容となって
いた。
この歌を聴いた天智天皇は額田王に嫌気がさし、その反動もあってか、改
めて倭姫王(やまとひめのおおきみ)へ傾いていっては皇后とした。
飛鳥を捨てた天智天皇に、額田王は距離をおくようになっていたが、それ
は、即位の年の夏五月に湖東の蒲生野(がもうの)で催された薬猟(くすりが
り)のときに、《あかねさす紫野行き・・・・》と詠んだ歌にも現れている。天
智天皇を野守風情(のもりふぜい)に譬(たと)え、溜飲(りゅういん)を下げた
形の歌となっている。
藤原鎌足(ふじはらのかまたり)が死去した翌年(西暦六七○年)の秋、夫
君の鎌足と死別していた鏡王女(かがみのおおきみ)は妹の額田王を訪ねたが、
その日は天智天皇には額田王を訪ねる予定の日であった。が、天智天皇は現
れず、額田王は《君待つと我が恋ひ居れば・・・・》の歌を詠んでは、現れない
天皇を偲んだ。
その翌年(西暦六七一年)、天智天皇は崩じ、額田王は《かからむの念
(おも)ひ知りせば・・・・》の歌をはじめ二首の挽歌(ばんか)を作った。そのこ
ろ盛んに童謡(わざうた)が流行し、その童謡の一つに《吉野の鮎(あゆ)》を
詠み込んだ一首があった。
大和の吉野川に自由気ままに生きている吉野の鮎とは、大海人皇子(おお
あまのみこ)すなわち額田王の前の夫君で、やがて即位する天武天皇を鮎に
譬えたのであり、歌の中で《私は苦しい》と嘆いているのは、大津にいて、
身動きできなくなって助けを求めている額田王の譬えであった。
翌年(西暦六七二年)生起した壬申ノ乱(じんしんのらん)後、額田王は天
武天皇のもとへ身を寄せ、暮らすようになるが、不如帰(ほととぎす)の名を
尋ねられたのが縁で、幼い弓削皇子(ゆげのみこ)を知り、《いにしへに・・・・
》の一首を詠む。二十年後《み吉野の・・・・》の歌を額田王より受けたのを
最後に弓削皇子は夭折(ようせつ)した。
このあと物語は額田王の二十歳の頃へと戻り、《紀伊国(きのくに)の山越
えて行け・・・・》や《秋の野のみ草・・・・》《熟田津(にきたつ)に・・・・》など額
田王ならではの華麗な歌物語となっていく。
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